上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- / Top↑
人物を文章で描くのはたいへん難しい。

ある一面だけをとらえて書けば底の浅い文章になる。

だいいち人間はそれほど単純ではない。

近ごろのテレビ、新聞などのマスコミにおける人物論は、ひどく底の浅いもの

ばかりである。

ある一定の角度から光を当てるだけだから時がたつにつれ、腐敗が進む。



たとえば、ホリエモンである。

マスコミ各社が彼を時代の寵児ともてはやしたのは、つい最近のことだが、そ

の頃の記事はすでに腐乱し、見る影もない。

そうした文章を「ある人間の手先になって、その人を誉め、宣伝する」という

意味の“提灯記事”と蔑まれたものだが、いまのメディアには、その蔑みの自

覚がないようである。

自覚がないために逮捕された瞬間から一転して犯罪者扱いの記事、情報をタレ

流す。



なにか事を成し遂げた人物、あるいは自分の好む人間を盲目的に誉めたがるの

は、多くの人がおちいりがちな罠である。

対象の人物を誉めることによって、誉めている自分という存在の格上げを行っ

ているにすぎないことに気がつかなければならない。

表現者として対象人物を盲目的、全面的に誉めることは底の浅さを自ら暴露す

る行為であり、対象人物に寄生していることを天下に知らしめていると思うこ

とである。



そうした文章は、いわば勧善懲悪の臭いを放っている。

対象人物を“善”とするには、“悪”の存在を際立たせればいいのである。

日本人の好むドラマ『水戸黄門』は、その手法だけで長寿を成し遂げている。

水戸光圀という人物の素晴らしさを強調するために、次から次と悪代官やら悪

徳商人を出してくる。

その結果として水戸光圀という人物を正義の味方、弱者の救済者としてのイメ

ージを見る者に植えつけていく。



それは暴力団を“武闘派”と“穏健派”に色分けして表現することがあるが、

こう表記することによって、なんとなく“穏健派”の人たちが善人に思えてく

るのと手法は同じである。

暴力団の実質は変わらない。

むしろ、そうした誤解を与える表記こそが非常に危険であって、“穏健派”が

“経済ヤクザ”として闇金を支配し、どれだけの一般人を苦しめているか。



だから水戸光圀であろうと、安倍晋三であろうと権力者というのは、つねに両

刃の剣を懐に隠し持っていて、悪を叩いて民を救済する一方で、民を平然と斬

り捨てる存在であることをメディアはもちろん、ブログの書き手もはっきりと

自覚しておかなければならないのではないか。



人物を描く場合には、よい面ばかり書いてはいけない。

長所と思えることは、裏を返せば短所でもある。

「おおらか」の裏には「おおざっぱ」という意味も隠れていることを書き手は

十分に理解した上で、言葉を選ばなければならないのだ。

それと同じで、「彼は真面目で、仕事に熱心な男だ」と、彼の仕事ぶりを紹介

した提灯のような記事を読むと、「なんだ、遊びを知らないんだな、面白くな

い男だ」なんてことをわたしはつい考えてしまう。



人物を書こうとするときは、それそうとうの材料を持っていなければならない。

よいことも、悪いことも含めてさまざまなエピソード、証言を収集して、それ

を整理分析したうえで書く。

それでようやく奥行きのある文章となっていくのではないか。

奥行きとは、その人間に対する愛情でもある。

愛情を感じられる文章といっていい。

怒りにまかせて一方的に攻撃しているような文章には書き手の愛情を感じるこ

とはできないのは当然だが、一方的に誉める文章にも愛情を感じることはでき

ない。

「誉め殺し」である。



つまり、人間を描く場合、100%誉めてはならないし、100%こきおろしてもい

けない。

70%をこきおろし、残りを誉めるというぐらいがいい、と教えられたことがあ

る。

その比率は対象の人物によって変化するけれども、からかいながら誉めたり、

誉めながらくさしていけば、書き手の目線の位置が明確になり、文章に説得力

と人間に対する愛情がこもってくるように思える。



書き手の目線。

それは、自分も同じような過ちをおかすのではないか、という恐れであり、想

像力である。
スポンサーサイト
2006.10.31 / Top↑
先日から、一冊の本を捜している。

いまだに発見できずにいる。

前回ブログ記事で「靴下売りの話」を書きながら、ずいぶん前に読んだ小説が

浮かんできたのだ。

短編小説の名手といわれた阿部昭の『人生の一日』という作品である。

引っ越しを重ねてきたから古本屋に処分してしまったか、それともいまだに段

ボールに入ったままだろうか、などと考える。

おそらくいつものように諦めてしばらく経った頃にひょいと見つかるのだろう。



その『人生の一日』という短編小説は、砂嵐のような強い風の吹いている冬の

ある日、書き手である「私」の家に母と息子の二人が宗教の勧誘にやってくる、

という話だった。

「私」は、子供を巻き込んで宗教の勧誘をしている母親に対して怒りを感じ、

悪し様に叱りつける。

怒りにまかせて叱るという行為は、尾を引くもので、小説家の「私」も、重た

い気持ちになっていく。

自らの人生をふり返り、どうしてもぬぐいされない重たい記憶というものがあ

ると、作者は言う。

それがタイトルの『人生の一日』となるのだが、「私」は、子供の目線を通し

て母親が見ず知らずの男に激しく叱責されている光景について思いを巡らせて

いく。

そして、その子にとって忘れられぬ『人生の一日』になったのではないかと、

子供の目の前で母親を叱りつけたことを悔いる、という展開だったと思う。



曖昧な記憶だから間違っていたら、ごめんなさい、と謝るしかない。

なにしろ20年ほども前に読んだっきりだから、自信もないのだ。

それでもこの作品が記憶に残っているのは、当時、同じ体験をしていながら、

叱るという行為を思いつきもしなかったからである。

冷たくあしらって帰っていただくということを繰り返していたから、なるほど、

叱る、怒るということもあるのか、と関心を持ったことを覚えている。

心に残る一冊である。

なのに、その本がないとは…。

捜し物がヘタクソなのは、本当に困ったことである。



「整理整頓が悪いからだ!」なんてことは、言われなくともわかっている。

読んだ本、途中で投げ出している本、いまだに開いてもいない本、作家別、

ジャンル別、すべて整理しておけばいいのだろう。

が、そんな時間があったら本を読んでいたほうがましである、なんてことを考

えるから、捜索という無駄な時間を浪費することになる。



じつは、今朝から捜しているけれど、これまた発見できずにいるもう一冊があ

るのだ。

スタインベックの短編小説集で、そのなかの『怠惰』という作品を再読してみ

たくなり、捜索活動を開始、すでに3時間も経過している。

これは、まるで自分のことを書かれているようだと、思った記憶があり、この

一冊を心の友にしようと思っていたのに、これまた紛失している。

子供が勝手に持ちだしたのか、それとも「面白いから読んでみなさい」などと、

誰かにあげてしまったのか。

とにかく、捜し物はやっぱり見つからない運命にある。



一昨日、どうしてこうも捜し物がヘタなんだろ? と、たまたまわが家を訪れ

て下さったポッポのパンの亮子さんに話すと、

「思い込みの強さのせいじゃないかしら」

と、すかさず返ってきた。

さすがに返答が速い。

思い込みの強さでは人後に落ちない亮子さんの言葉は、体験の重みがあって、

素直に耳をかたむけることができる。

なるほど、その通りだと思った。



先日も、懐中電灯を捜していた。

闇夜のなかで作業をやろうとしていること自体、間違っていることはわかって

いる。

しかし、その作業はセンサーライトを設置する作業で夜になって気がつくので

ある。

「あ、センサーライトつけなくちゃ」

ライトの必要などない昼間は、すっかり忘れているのだ。



それで夜になってあわてて設置しようと懐中電灯を捜す。

わたしの捜しているイメージは「グレーの懐中電灯」である。

ありそうなところ、以前に使った場所、もしかしてというようなところ、すべ

て捜してみたが見つからない。

イライラして、

「お~い、懐中電灯、どこやった?」と叫ぶ。

すると、あきれたような表情で家人が、

「そこにあるんでしょ」と言う。

それでも、見つけることができない。

「ないぞ!」と、しだいに語気が荒くなる。

「これッ!」と、家人もイライラして指を差す。

あった。目の前にあった。何度も捜している場所にあった。

なぜ?

そこにあるのは、赤い懐中電灯だったからである。

わたしの懐中電灯のイメージは、グレーだった。

その強烈な思い込みによって目の前にある懐中電灯すら見つけることができな

いのだ。

捜し物がヘタクソなのは、整理整頓ができないからではなく、思い込みのせい

だと、思い込みはじめている。



作家の向田邦子が面白いエッセイを書いていた。

夜中、停電になって懐中電灯を捜すという話だった。

やはり、なかなか見つけることができないタイプらしく、その騒動ぶりをおも

しろおかしく書いているが、最後に、こんなオチをつけてくれる。

「懐中電灯を捜すために、もう一本の懐中電灯を机の引き出しに入れておこう」

20年以上も前に読んだエッセイなのに、こういうトンチンカンな話が忘れられ

ないのは、その頃から自分も同系列の人種だなと思ったからだろうか…。
2006.10.26 / Top↑
誰が言ったか知らないが、『男の顔は履歴書』だそうである。

自分の顔をしげしげと見ることなどないから、わたしにどんな履歴が顔に刻ま

れているのか、わからない。

というより、わたしは、めったなことでは鏡を見ない。

外出の予定がなければ顔も洗わないのだ。

ヒゲは無精を越えて、怠惰ヒゲである。

だからアポなしで訪問されたらたいへん困惑する。



先日もアフリカのどこだったかに援助金を送るから靴下を買ってくれ、と主張

するうら若き女性がやってきた。

こういう人は、だいたい突然やって来る。

こちらは相変わらず鏡を見ていないから、自分がどんな顔をしているのか、わ

からないが、

「うちには寄付する金もありません。寄付して欲しいのはこちらです」

と言ったら、真に受けたらしく、珍しく、

「はい、わかりました」

と、すんなりと帰っていった。

こんなことは初めてである。



いつもは断っても断ってもパンフレットを差し出して、なんだかんだと説明し

ていく。

いつぞやは男女二人組がやってきて、若い方の男が、

「お父さんの愛の力が必要なんです。靴下を買っていただけませんでしょうか」

なんて耳ざわりのよいことを口にするので、からかいの虫がうずいた。

「なに? お前、いま、何と言った。愛といったな。愛ってなんだよ。じゃ、

なにか、おい、靴下買わないオレには愛がないってのか!」

と、へ理屈をこねてやったら、背後にいた女性があわてて、

「そんなことを言っているのではありませんから」となだめにかかってきた。

「いや、オレのことを愛がないと言ったんだぞ、こいつは」

と、にらみつけたら、

「本当に申し訳ありません。そんなつもりで言ったんではありませんから」

「いや、お前はオレに愛がないと言った。どうなんだ、おい。靴下買わない奴

は、悪党なのか」

と、たたみかけたら、「すみませんでした」と小声でささやくように言って、

帰っていった。

このときのわたしの顔の履歴には、ヤクザと刻まれていたのだろうか…。



こんなエネルギーを使うよりも鏡を見ないで過ごし、

「寄付して欲しいのはぼくです」

とささやくようなひと言の方が効果があることが、今回よくわかった。

しかし、あとになって鏡を見て、ちっとばかり恥ずかしくもなった。

寝癖のついた頭髪、頬まではえているゴマヒゲ、鼻毛との境界も、不明になっ

ている。

ちっとやりすぎたか…。

この時、わたしの顔の履歴には家があるのにホームレスと刻まれたに違いない。



さて、『男の顔は履歴書』ということだが、あるフォークシンガーが佐渡にや

って来てライブコンサートを開いた。

いまは閉じたが、佐和田のアゲインという店だった。

わたしは2枚組のアルバムを購入し、カウンター席で隣同士で座っているその

人に、

「サインしてもらえますかね?」

と、アルバムを差し出した。

彼はわたしの顔をジッと見つめる。

そして、おもむろにサインペンをサッサと動かし、書いた。

「酒を飲みたくなる顔」

これ、喜んでいいのだろうか…。

「そんな顔していますかね」

「うん、そう見える。マスター、お酒ちょうだい」

といったから、本当にそうなのかもしれないなと思った。

その人は、友部正人という人だった。



それから10年ほど経って再びわたしの顔を「酒の飲みたくなる顔」という男が

現れた。

奇楽庵である。

それが、10月20日付けのこの記事である。

エロと酒の関係について言及しているけれど論理の破綻は明らかで、ただたん

に「欲望つながり」であるらしいことが、わかる。

それはいい。

わたしの顔と、記事に登場する「会長」が並列に置かれ、顔をみたら飲みたく

なるからモザイクをかけてくれ、と奇楽庵は言うのである。



「会長」はたしかにエロい顔である。

ねえ、お酒、一緒に飲みましょ、と誘っている顔である。

だからモザイクが必要なのも、うなづける。

エロが天下の公道を歩いているようなものである。



しかし、わたしは、今流行の引きこもりである。

顔を見せにいくこともない。

じっとパソコンに向かうか、夕刻、闇が下りてくるころになって犬と散歩する

だけである。

にもかかわらず、わたしの顔を見ると「酒を飲みたくなる」という言い分は、

どうもおかしいぞ、とハタと気がついた。



わたしもようやく人生のことがわかってきている年齢である。

とっくに「天命」も知っているんである。

そのいったんを開陳する。

酒飲みというのは飲む口実が必要な人種なのである、ということである。

まわりの人間に「それはしようがないね。あの人が一緒なら」と思わせる口実

を見つけたら心から安心し、大酒を飲むものなのだ。

だから、その口実作りに「酒を飲みたくなる顔」があると便利というわけであ

る。

つまり、奇楽庵の記事に登場する「会長」や、わたしの顔は、恐妻家の彼らの

お役に立っている、ということなのではあるまいか。

だから大いに利用したまえ、いつでも顔を貸してあげるよ、と言っておきたい。



『男の顔は履歴書』なんてものは、その程度である。

しかし、男が履歴書なら、女の顔はなんだろ? 

その問いに作家の藤本義一は、こう言った。



「女の顔は請求書」
2006.10.22 / Top↑
文章は素直に読み、楽しみたいものである。

しかし、行間を読み、そこからイメージをふくらませていくことも、これまた

文章を読む楽しみであり、読書の醍醐味というものである。



では、行間を読む、とはどういうことなのか。

簡単な例文を示して説明したい。

わたしは前回のブログ記事『そっぽをむく』にいただいたコメントの返信に、

次のような言葉を記した。



「奇楽庵も(スズキの)でかいの揚げてたな。

頭だけを見せられ、釣りの知らないオイラでも、ゾクゾクっときましたぜ。

脂のノリも、かなりだったな…。

アラしか食ってないけど。」



これは奇楽庵に寄せた文章ではなく、やはり釣りにも一家言をもつ農民音楽家

らしきシュウゾウ(週三)さんへの返信である。

多くの友人知人を差し置いて脂のほどよくまわったスズキのお造りをわたしひ

とりでいただいたと思われると申し訳ないと素直に考え、最後に「アラしか食

ってないけど」で結んだのだ。

これは、あくまでも奇楽庵の周囲によだれを流して待っている多くのスズキ・

ファンに恨みをかわないように配慮した文章なのである。

もちろん、配慮しているのは奇楽庵に対してである。



ところが、昨夕6時半頃、奇楽庵がメールをよこした。

タイトル「さしみ」

本文「いきます」

これだけである。

行間も糞もない。

至急電報か、新聞の人捜しの広告文なみである。



奇楽庵は、さきの文章を読んで、こう思ったのであろう。

「能美の奴、アラばかり食わせないで、刺し身を持ってこい、と言ってるんだ

な。ったく、困ったオヤジだ。わがままにもほどがある」



これが行間を読むということである。

わたしは「刺し身を食わせろ」とはひと言も書いてはいない。

にもかかわらず、彼はイメージをひろげていき、「アラしか食ってないけど」

の行間から「刺し身を食わせろ」という言葉がにじみ出ていると解釈したよう

である。



文章で成り立つ文学は、数学のソレとは違って正解というものがない。

誤読、曲解も含めてさまざまな解釈があって当然であり、それらの解釈を巡っ

て論議することで、文学の奥深い味わいを知ることとなる。



重ねて言うけれど、わたしはひと言も「刺し身を食わせろ」と言っていない。

そして、小声でささやくけれど、ひと言、付け加えたい。

奇楽庵の文章に対する読解力は、魚のシメ方と同様、ここ数年で飛躍的な成長

を遂げているという点である。

いまでは他人が聞けばチンプンカンプンであろう禅問答もどきの会話で互いの

心のうちがわかるほどになってきているのである。



アオリイカの季節だな…。
2006.10.16 / Top↑
北朝鮮の核実験で、マスコミ大騒ぎの大はしゃぎで、無知なる民を煽る。

放射性物質は飛来しても少量、との専門家の予測もなんのその、やれ、心配だ、

大変だ、と繰り返す。

しまいには、ミサイルに核弾頭を搭載したら日本は射程距離内で、さあ、どう

する、ニッポン、てな具合。



マスコミが核の恐怖を煽れば煽るほど、改憲目論む安倍シンゾーの思うツボ。

日本も核武装せよ、と跳ねっ返りが主張すれば、まあまあ、と抑えて、

せめて佐渡に新型巨大レーダーを、と絶対的必要論が勢いを増していく。

アホクサ。



キム・ジョンイル、まんざら阿呆でもあるまいし、わざわざミサイルに核を搭

載してぶち込むなんてことは、やるわけがない。

本気で日本を攻撃する気なら、日本国内に潜伏する北の工作員が各都市にこっ

そりと生物兵器をバラまく。



つまり、権力者たちがゲームをやっていると思えばよろしい。

儲けるのは、誰なんだ? てなことを冷ややかに、つらつら考えていれば、い

かにもアホらしくなってくる。

絶対多数の無知なる民、煽られてはならない。

「右向け、右!」

といわれれば、そっぽをむくか、左を見ることである。
2006.10.10 / Top↑

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。