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空腹のきわみにきて、さて、ラーメンでも食うかと沸騰した鍋に麺を投入する。

その瞬間に鳴リ出す電話ほど憎いものはない。

「クソ、誰だ、こんなときに」

そう独り言を放ちつつも、緊急の電話だったらいけないと思い直し、受話器

を上げる。

緊急の電話でもないけれど、

「いまラーメン食うから、あとで」

と言えない相手というのがあって、進退に窮する。



そういうときにかぎって久しぶりに話す相手で、時候の挨拶が終わり、さて用

件に入るか、と思うのだけれど、なかなか用件に入ってくれない。

こちらは空腹状態であるからイライラがピークに達する。

「ごめんなさい。いま手が離せないので、後でこちらから電話します」

と断りを入れるタイミングを失しているために、相手の話を聞くハメに陥る。



その結果、茹ですぎてフニャフニャの腰抜けラーメンをすすりながら地団駄を

踏むことになる。



腹の虫が収まらない。

外出から戻ってきた家人やら子供に向かって八つ当たりぎみに鬱憤を晴らす。



「間の悪い奴ってのは、どうにもならん! お前達も気をつけろ。相撲も、文

章も、歌も、人間関係も、電話も、みんな同じだ。大切なのは、間だぞ。間の

悪い奴は何をやってもモノにならんし、箸にも棒にもかからん」



ラーメンぐらいで、そんなに怒るこたぁないだろう、と思われるだろう。

家人も子供たちも、とんでもない剣幕で言い放つわたしにかなりあきれていた。



しかし、わたしの腹には「胃袋のことを考えない奴はロクなもんじゃない」と

いう確乎たるテーゼがある。

「生きるために食うのか、それとも、食うために生きるのか」という人類にお

ける大命題があるけれど、みなさんは、どちらだろう。

わたしの場合は、もちろん、「食うために生きているんだ。文句あっか?」て

なクチだから、たとえラーメン1杯でも大切なんである。



それから大きな変化が起きた。

電話がかかってきて「はい、能美です」とわたしがでると、先方はすかさず

「いま、ラーメン食べようとしてる?」と尋ねるようになったのである。

家人があちこちで嘲笑ぎみに言いふらしたに違いないのだ。



枕話が長くなってしまったけれど、「間」の悪い奴は、本当にロクでもない、

という話である。

そう、わがリーダーとして君臨していた安倍くんの話である。



いざ、決戦、天下分目の関ヶ原。

敵方の鳩山民主幹事長、出陣式を終え、いざいざ、我こそは、と華々しく初陣

を飾ろうとした矢先…。

「美しい国」づくりに命を賭していた自民の大将、安倍首相、

「ボクチン、や~めた」と戦場から離脱したんである。



岸信介、佐藤栄作に連なる一族の汚点。

伊藤博文から八代目総理大臣という長州閥の汚点だろう。



自民側がさかんに流している辞任理由がまたいい。

医師によると疲労やストレスで胃腸の機能が悪化する「機能性胃腸症」で、

3、4日もすれば治るらしい。

これ、多くの人が子供の頃に経験しているテスト前になるとあらわれ、テスト

が終わると治ってしまう症状なのではないのか。

朝青龍といい勝負、どっこいどっこいの「病」のように思える。



それにしても、この「間」は、いったい、なんだろ?

「職を賭してテロ特措法を延長し…」と、シドニーでぶち上げ、帰国するや、

国会で所信表明を行って、「ボクチン、や~めた」は、あまりにも無責任だろう。

きっと、この人は、子供の頃に学校へ行くのがイヤで腹痛になったこともないん

だろうな。

そんなことを何度も経験していれば、「お、懐かしいな、この腹痛、そのうち治

るんだよな」てなことを思いながら、職責をまっとうしていたに違いない。



それにしても、「間」の悪い男である。

わたしは、NHKの朝の連ドラ・ウォッチャーで朝の放映を見逃したら、昼の再放

送を観ることにしているが、この日が、そうだった。

ドラマが後半にさしかかった頃、「安倍首相、辞任」の速報テロップが流れた。

そして、残り2分ほどとなった12時58分、ドラマが突然打ちきられ、報道番組に

切り替わったのだ。



「ったく、間の悪い奴だ!」と、叫んだのは言うまでもない。



それから延々と「ボクチン、や~めた」についての報道番組が組まれた。

大相撲中継の始まる3時を回ってもいっこうに力士の姿が映らない。



「今日はボクチン、や~めたのおかげで相撲中継もぶっ飛ぶな」

と読み、犬を連れ、散歩にでることにした。

すると、どうだろ。

しばらくして携帯に電話が入った。

「相撲、始まってるよ」

ある人に「相撲中継が始まったら、教えてちょうだい」と頼んでおいたのだ。

それから、必死で歩いた。

最後の心臓破りの急坂も汗だくになりながらも「2拍吸って、2拍吐く」のマラ

ソンの要領で乗りきり、テレビのスイッチをオン。



その直後である。

電話が鳴ったのだ。

久しぶりに話す友人からの電話だった。

「安倍、辞めたな。ひどすぎるな」

という最新の話題に終始した。

音声を消したテレビ画面を横目で眺めながら、

「もしかして、間の悪いのはオレなのか?」

という思いがかすめた…。
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2007.09.14 / Top↑
「空気が読めない人間」を若者たちは「KY」という符牒を使って蔑んでいるよ

うだ。

メディアも、それに乗じて安倍首相を「KY総理」と呼んでいる。

なるほど空気が読めないから、こんな事態になっているのか、と本気で感心し

ているわけではない。



安倍首相を弁護するつもりは毛頭ないけれど、「空気」なんか読まないでよろ

しい。

というより、読めなくてもいい。

「空気」ほどアテにならないものはないのだし、「空気」ほど無責任なものも

ない。



昭和16年の4度にわたる『御前会議』において日米開戦を決定したのは「軍部

の作りだしていた『空気』だった」という趣旨の評論を読んだことがある。



このときの近衛首相が「KY総理」だったら、どんなによかったか、と本気で考

える。

「空気」を読まずに軍部独走に歯止めをかけるべく天皇に「戦争ではなく外交

努力で難局を乗りきりますから、統帥権を盾にしている軍部をおさえてくださ

い」というようなことを上奏していたならば、あの悲惨な戦争は起こらなかっ

たに違いない。



「空気」によって戦争が始まり、「原爆」によって竹槍を捨て敗戦を認めざる

えなかった。

この戦争の責任の所在は?

勝者が敗者を裁いた東京裁判は論外としても、日本人による戦争の責任につい

ての論議はまったくされないまま。

これが「空気」の恐ろしさであり、戦後から現在にいたる官民あげての無責任

体制の始まりでもある。



さてさて、若者たちがなぜか「空気」を読みたがるけれど、そんなものより小

説の1冊でも読んだらどうだろ。

集団の中で異質であるという勇気こそ、よほど尊い。

みんながイジメているからオレも参加しなければいけない「空気」でイジメ側

につくなんてのは愚の骨頂。

給食費は払わんでもいいんだ、という「空気」が流れれば、すぐに同調するバ

カ親たち。

「空気」なんてのは、たいがい悪いほうに向かう。



それだけに安倍首相の「KY」ぶり、ついでに朝青龍の「KY」ぶりを、応援した

くなるんだな。

「空気」にタテついて日本がよくなり、相撲協会がよくなれば、御の字だ。
2007.09.04 / Top↑

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