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民主の大勝ち、予想通り。

というより、勝ちすぎか。



問題は、今後のメディアの出方だな、なんてことをボンヤリ思いながら、“キッチン・野方”でジンギスカンをつつきながら、祝いの酒を飲む。





午後6時半頃、出先のわたしの携帯に、



「ジンギスカンやりませんか?」



と、奇楽庵からメールが入った。





立ち寄ってみたところ、すでに鍋が炭火の上にのっかっていて、準備万端ながら奇楽庵の姿しかない。



つまり、“ひとりジンギスカン”の気配。



これは放っておくわけにはいかぬと、「会長を呼べ」と言い置いて、出直し。





およそ午後8時。

チビ姫1号と、その父親を連れ立って“キッチン・野方”に到着。



「サンマを食って腹いっぱい」という会長も姿をあらわし、ビールで乾杯。





開票速報をテレビで見ながら、ジンギスカンとは、なかなかの趣向。



しかも、自民の大物、次々と敗れ、酒が心地よくすすむ。





小沢一郎がテレビ画面に登場。

すかさずスタジオのNHKの記者が、



「小沢チルドレンが100人ほど誕生し、党内で隠然たる力を持つことになりますが、院政という…云々」



と、さっそく民主分裂の流れを全国民に向かって印象づける。



小沢一郎、憮然とした表情で、



「そういうマスコミのレベルの低さが…云々」



と、記者をたしなめた。





それでもNHK記者、さらに食い下がる。



「閣僚ポストに就くのでしょうか。それとも党内のポスト…」



まだすべての議席が確定してもいない段階、およそ200議席が残っているのに、あまりにもひどい質問。

明らかに小沢を悪者に仕立て上げての民主党分裂の企てとみた。



民主党政権では、記者クラブ制の改革に手をつけるとメディアの側の恐れが、こんな質問にあられてきたのではあるまいか。



政権担当の能力を失いながらも自民党が、これほど長期にわたって政権を維持できたのは、なによりメディアをうまく取り込んできたからこそ。



その癒着の最前線が記者クラブ。

ここをつぶされたら、権力の広報となりさがっているメディア、手足をもがれたようなもの。



だから民主分裂、再び総選挙へと向かわせたいのか、と勘ぐりたくもなる。



このあたり、マスコミも自民党同様、反省力がない。



いかに大手マスコミが、流れを作ろうと画策したところで、インターネット上では、それを暴く記事が提出される。



テレビ、新聞ではお目にかかれない情報にこそ真実が隠されていると、読むものの関心をひき、アッという間に、広がり、今回の民主の大勝ちへと向かう。



官僚組織だけではない。

メディアの掃除こそ、民主党がやらねばならぬ一手ではあるまいか。





なんてことをクイクイ酒を飲みながら、考えるものだから、とりとめもない。



気がつけば、残り議席2つだけとなり、お開きに。



じつに、うまい酒だった…。
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2009.08.31 / Top↑
「文は人なり」という言葉があるけれど、インターネット上で多くの人の文章を読んでいると、たしかにその人となりがにじみ出てくるものなのだなと、うなづく。



職業的な作家は、いろいろな文体を駆使しての表現を可能にするだけの力量を持っているだろうけれど、それにしても、その人の変えようのない性格や記憶、経験、さらにはその人の意識の特性である志向など、つまり生活史全般が文章の端々に表れてしまう。



ましてインターネット上に氾濫している文章は、その意味でほとんどが無防備だから、その人となりが、あからさまに出てきてしまうことが多い。





たとえば、自分自身を、どんな言葉で表現するか。



僕、ぼく、ボク、ボクチン。

俺、オレ、おれ、オイラ、オラ…。

私、わたくし、わたし、アタシ、あたい、アチキ…。



これらを並べてみるとわかるけれど、どの言葉、どの表記を選択するかによって、その文章全体にニュアンスが変わってくる。



自分のことを「ぼく」と表現して似合うという人はなかなかいない。

大江健三郎ぐらいではないか、と言われたこともあるけれど、あの強面の猪瀬直樹が「ぼく」を多用するので、文章全体がしっくりと馴染まないような気がしてくる。



「俺」というのは、やはり偽悪のにおいを感じるが、若い頃の野坂昭如は、坂口安吾、壇一雄、太宰治の流れの中の最後の無頼派作家とも言われていたから「俺」だったのではないだろうか。





若い人が好んで使う「自分」という言葉がある。

旧軍隊で使用されていて、それが“秩序”を好む体育系に流れ、若い人が「かっこいい」と思って使っているのかも知れない。



ついでに言えば「自分的には」なんて言葉も、便利に使用されている。

自己主張なのに「的」をつけることで曖昧になり、強い自己主張を薄める働きがある。



おそらく人間関係を荒立てず、スムーズにしようという潜在的な意識が、そういう言葉遣いを生みだしているのだろう。

そういう意味で便利な言葉だと思う。



といっても使う使わないは別問題で、わたしは「自分的」は、使いたくない言葉のひとつだ。





「筆者」という言葉を好んで使う人もいる。



これは国語教育の中で「筆者の気持ちになって答えなさい」という形で何度も出てくるものなのだが、自分のことを「筆者」と呼ぶのは、論文などのちょっと固い文章表現に使用されることが多い。



したがって「筆者」と表記をする場合、語尾は「…である。」で終わることが多く、押しつけがましい文章になりがちだ。



流行の言葉で言えば「上から目線」となりかねないから、中途半端に使用すると、反発を招く。





さらに、自分のことを名前で表記する人もいる。

就学前の子供が自分のことを「ノリカはね」と言うが、学校に通い始めて社会生活が深まるにつれ、この言い方はなくなっていく。



しかし、大人になっても、自分を自分の名で呼ぶというのは、よほどの甘えん坊か、自意識の強い人か、ということになる。



あるいは、自分を突き放し、客観的に自己を表現する場合に、自分を名前表記にする場合もある。

まるで小説の中にでてくる人物を描くように、自分を文章の中に置く。

これはかなり難度が高く、それほど多くは見られない。





というように、「自分」をどう表記するかということだけで、さまざまな選択肢があり、その選択によって文章全体の印象が変わる。

もちろん、その選択は、その人の生活史の中から生みだされる。



まして文章全体を検証していくと、さきほど上げたように、性格や、その人のもつ記憶、志向、経験、好み、さまざまなものが出てきて、まさに「文は人なり」となる。



だから、怖い。





たとえば、男が女になりすまして文章を書くとする。

女以上に女らしい文章になってしまうから、不思議である。



よく言われるように、新宿二丁目あたりへ行くと、そこにいるのは、まさに男なのに、女以上に女らしいしぐさ、しゃべり方をする。

それと同じように男が女になりすまして書く文章は、バカらしいほど女らしさを強調したいがための表現を多用しがちだ。



しかし、実際の女の書く文章には、そうした作為をもつ必要がないから、文章全般が自由闊達で、柔軟である。

時には男言葉を使って怒りを表現して、笑わせるということだってやるけれど、男がなりすました女の文章にはそれがない。

せいぜい「おだまり!」なんてオカマ言葉になってしまうのが、オチである。





しかも、文章の内容も、知らず知らずのうちに「自分」というものが出てしまうから、言葉づかいが女なのに全体的なニュアンスに男が出てしまう。



「男の大局好き」というのがあって、生活の細やかなところまでは目が届かない。

しかし、一方、女は逆で、大局などにはあまり興味がなく、生活の細部からの視点での表現が巧みになる。



この大きな違いは、女性誌と男性誌の作り方の違いを見ればあきらかで、ブログの内容を散見していれば、これは女のふりをして男が書いているものだなと、知れる。









インターネット上に氾濫する文章は、まさしく玉石混交で誠実さを感じられる素晴らしいものがあると思えば、なんのためにこんなブログを作成して文章を垂れ流しておるのか、と思うようなものもある。



しかし、やはり「文は人なり」で、多くの人が、そのいかがわしさについて直感的に気がつくものだということを、多くの人が自覚する必要がある。



そうすることによってインターネット社会も、よりいいものに進化しつづけるのではないだろうか。


2009.08.28 / Top↑
日曜日、午前中から娘の嫁ぎ先からすぐにでも飛び込める海へ行ってきました。

それはそれは、豊かで、美しい海です。



いわば、今年の夏の最後を存分に楽しんで、実りの秋へ向かうために、気持ちの切り替えを目的にした海水浴でもありました。



チビ姫1号から3号が全員そろい、監視役の大人も5名。



波もなく、水温も高く、最高の海水浴日和で、大人も子供も大はしゃぎでした。



水の恐怖感をすっかり乗り越えたチビ姫1号は、浮き輪をつけながらも、水深で3メートルほどのところまで行き、さまざまな魚やウニなどをゴーグル越しに見たようで、大興奮でした。



まさにファミリー海水浴の様相…。







帰り際、地元漁業関係者が、お土産をくれました。



水揚げしたばかりのアワビ、サザエ、岩ガキ、モズクでした。

それも、山ほど。

本当に豊かな海だと、あらためて思いました。









さて、ラストサマーを飾るイベントとして、ワタクシ、先のブログにて、





 その後は、農民音楽家の名曲『御礼』のナマ演奏でも聴きながら一杯やろうと勝手に算段。



 さて、野方ガーデンはいかがなり?





と記したのは、ご承知の通りです。





その返事のメールが、当日になって携帯に着信しておりました。





タイトル 「今夜っすか(汗)」



そして、本文の一行目に、な~んと、





「デート、キャンセルしなければいけないじゃないですか」





とあるでは、あ~りませんか。



そして、こう添えてあるのです。





「店を早仕舞いして、失楽園の予定だったんですがねぇ~、しょうがねぇな~」





ゲ、ゲ、ゲ…。



『失楽園』とは、ミルトンの壮大なる叙事詩ではなく、渡辺淳一の“不倫”をテーマにした小説をさしていることは明々白々。



ほんまかいな、と思いつつ、海水浴からの帰りに野方酒店に立ちよって確認することにしました。





「失楽園ってなに? キャンセルしてもいいんか?」



と、ストレートに問うてみたところ、彼は、ニヤっとしながら、



「すんません、見栄張ってみました」



と言うのであった。



「なんか、マジになっているみたいで、焦りましたよ。シャレにきまってるじゃないっすか」





そりゃ、そうか。

不倫をする人間が、今夜は不倫です、などと宣言するバカもいないか…。



しかし、これが、その後に開かれた『ラストサマー感謝祭』において、とんでもない布石になっていたことを彼も、わたくしも、この時、まるで気がついていなかったのでした。





夜になって不良中年らが野方ガーデンに集まりました。



“婿の海”でいただいた海の幸を中心にした料理が並びます。





アワビの刺し身、肝醤油

サザエの刺し身

アワビのバター炒め肝ソース

岩ガキの炭火焼き

サザエのつぼ焼き

アワビの踊り焼き

サザエご飯ショウガ風味

牛肉のサイコロステーキ

ピリ辛ソーセージの炭火焼

奇楽庵特製“丸ごとカボチャの豚ひき肉詰め”

ゴーヤチャンプルー

夏野菜の炭火焼き、などなど…。







さてさて、夜も更け、チビ姫1号と奇楽庵の奥方が店の中に引き上げた頃から、つまり、女性の影が消えた瞬間から不良中年どものすっかり眠っていたなにかが突如起き上がり、テーマが“失楽園”方面へと向かっていったのでした。



はい、奇楽庵が“布石”を打っていたせいです。



それぞれの武勇伝が夏の闇の中で、ボソボソと語られ始めます。



武勇伝といっても、さまざまなる体験を重ねてきた不良中年ですから、うまくいった話をする人などおりません。



そんな話題を自慢気に語ったところで場がシラけるだけであることを熟知しておりますから、爆笑モノの武勇伝が次から次と出てくるのでした。



ボソボソと語っては笑いが起き、ヒソヒソとささやいてはヒヒヒヒ~と息が詰まるほどの苦しい笑いが起きました。



内容?

それは書けません。

あまりにも、あまりなのですから…。



しいて言うならば、男の悲しさ、男の情けなさ、男のバカさ加減が炸裂したような話がてんこ盛りです。



そこで、ふと思ったのです。

この不良中年たち、うまくいった経験、自慢したい話を、本当に持っていないのではあるまいか、と。

ま、そのことについて追及しないのも、大人というものであります。



それにしてもこれほど長いつき合いなのに、なぜ初めて聴くようなお笑いノンフィクション話が、次から次と出てくるのか。

その埋蔵量の豊かさに、遊び人として尊敬の念を抱かざるをえないような気分です。



そんな尽きぬ話題を繰り出した後は、農民音楽家のナマ演奏『御礼』で始まり、高校生の時に作ったという『殿町ブルース』なんて大人の唄をしみじみと歌い上げ、興に乗ったついでに、季節柄、サザンの『真夏の果実』を農民音楽家の味付けで歌い、さらに『サマータイム』に挑戦。



満天の星空を仰ぎ、行く夏を惜しみつつ、ラストサマーナイトを存分に楽しんだのでした。



ちなみに、こんな雰囲気でした。



島発2等B





さて、次は、どういう大義名分で、やりますか?
2009.08.25 / Top↑


さて、日曜日の朝といえば、報道風バラエティ番組がめじろ押し。



政治を語るふりをして政局をもてあそび、国政選挙を語るふりをして権力の行方を占う。



厚かましくも「責任力」なんて言葉で、政権を維持したい麻生自民。



防衛、外交、国の安全などというキーワードを上げているけれど、拉致被害者を長年放置したうえ、いまだに解決できないでいることについて、よくも「責任力」などという言葉が使えるものだ、あるいは、使わせているものだと、メディアのツッコミの弱さこそ、この国のガン。



クリントン元大統領の電撃訪問で女性記者ふたりを救い出したオバマ・アメリカの外交力との比較の上、麻生自民の「国民の生命・財産を守るのが国家の使命」は、どこへいった、と激しく問わなければならない。



麻生自民に必要なのは「責任力」ではなく「反省力」なのではないのかと、じつは民の側、先刻承知。





近ごろ、メディアが報じない闇を、インターネット上でしっかりカバー。

想像、妄想、虚実のまぜあわさった情報が駆け巡り、判断する民も、それなりに学習。



たとえば、メディアおよび国家権力、酒井法子の“仮面はずし”ばかりをタレ流しているが、1人の女性が死んでいる事件の渦中にいる押尾学についての報道が極端に少ないことについて、愚かなる民もバカにしたものではない、「なにかを隠している」とうすうすと気がついている。



なにより亡くなった女性について「事件性はない」と警察が早々に判断し、司法解剖後、遺体をすぐに家族のもとへ渡した。

すぐに通夜、葬式が営まれ、遺族の側、この手回しのよさ、早すぎる判断に、いまになって、

「妙だ」と気がついた様子。





酒井法子の覚醒剤使用について、やれ、髪を切って出頭した、やれ、携帯電話を壊して出頭した、と酒井法子のずる賢さ、肝の太さを指摘するけれど、こういう情報をリークする警察・検察の思惑について、メディアが論じないのは、やはり、マスコミ権力と国家権力の癒着をかいま見る。



それこそ不起訴になれば、市民感情だの、国民感情だという妙な言葉を使って、納得できない、とする論調こそ、唾棄すべきもの。



問題の核心は、押尾学の事件。

それを酒井法子のワルぶりを強調することで、覆い隠しているとしか思えない。

政・官・財・マスコミ・組織暴力団の5大パワーが一致団結して、押尾事件の背後にある闇を隠ぺいしにかかっているというのが、インターネット上での常識。



にもかかわらず、日曜日のテレビ、相変わらず酒井法子について時間を割く。

「自民離れ」とともに、「テレビ離れ」が加速していることも、ぜひ、報じていただきたい。
2009.08.23 / Top↑


なんだか、調子が悪い。

夏が夏らしくなかったのが、いけないのだ。

ブスブスといつまでもいぶっている焚き火のようで、気分がいつまでもスカッとしない。



明日の天気をみる。

上々である。



いぶったままの残り火を完全に燃やし尽くし、夏の最後を飾るためにも美しい佐渡の海へ出動しなさい、とでも言っている天気だ。





海友(うみとも)にメールを打つ。





「明日、午前中より海へ行きませんか?」



「ラジャー」の一発回答。





その後は、農民音楽家の名曲『御礼』のナマ演奏でも聴きながら一杯やろうと勝手に算段。



さて、野方ガーデンはいかがなり?
2009.08.22 / Top↑

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