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井上陽水の初期の作品に『感謝知らずの女』という楽曲がある。

アルバム『氷の世界』に収められていて、初めて、この曲を聴いた時はニヤリとさせられた。



しかし、その後、時間が経つにつれ、まだ20代だった井上陽水が、女性の、というより人間のもっている欲望の深さについてユーモラスに表現している、その老成した才能に驚いた。



「限りないもの、それは欲望」というフレーズが耳から離れない。



そして「感謝知らずの女」がリフレインされる。





わたしにとって井上陽水のベスト3といえば、まずは、この曲が、どうしようもなく上がってくる。

なぜなら結婚してからというもの、何度、この曲を思い浮かべ、ひそかにつぶやいていたことか…。









先週土曜日の夕餉の時刻だった。

奇楽庵が、突然やってきて熱い土鍋をテーブルの上に置いた。



「食べて下さい。今朝、釣った魚を鍋にしたんだけど、一人じゃ、とても食い切れなくて」というのだった。





彼は翌朝の一番の船で旅に出るという。

そのために今夜は遅くまで仕事を片づけねばならず、ゆっくり飯を食う暇もないどころか、何時に眠れるか、などと説明、あわただしく店に戻っていった。





鍋の季節には、ちょっと早いけれど、これはありがたいと、さっそくいただく。



驚いた。

これが、ひどくうまいのだ。

白身の魚と野菜を塩で味付けしてあるだけなのに、その濃厚なこと。



それこそコラーゲンがたっぷりで、魚には目のないチビ姫1号は箸でせせるのがまどろっこしいとばかりに手づかみでしゃぶりつく。

ベとつく指先にも味がついているのか、さかんに舐める。





「この魚、なんて説明していた?」と、わたしは尋ねると、



「マダラだったけ?」と、息子がいう。



しかし、この濃厚な味わいは、マダラのそれではない。



「マハタと言ってなかったか?」と、家人の方を見ると、



「なんだったか、忘れた。だけど、美味しいね、これ。すごい濃い味だよね。野菜にも味がしみているし」



そういってチビ姫1号に負けず、バクバクと食べ、骨までしゃぶり、目玉の回りのコラーゲンを、うまそうにすすり、ほうばった。



内蔵も入っている。

ふんわりと大きいのは、肝だろう。

コリコリとした歯触りは、胃袋のようだ。







「おお、腹いっぱいだ。なんだか、そんなに食べていないのに、すごい満腹感だね」

と息子が箸を置いたら、それを受けて家人が、



「栄養がいっぱいだから、少しの量でもお腹がいぱいになるんだね」



と満足げに言った後、やっぱり、きた。





「だけど、これ、すこし濃すぎるね。むつごすぎる。わたしも、もういいわ」と言ったのだった。





これだ。

さんざん食べておいて「もういいわ」とは、なんて言い草だと思うが、これまた家人の真骨頂。



わたしの心の中で、さっそく井上陽水が、うたいはじめた。





♪感謝知らずの女、感謝知らずの女、感謝知らずの、お~、ん~、な~♪





ちなみに、その魚は、コレだった。



詳細は、今朝、島に戻ってきた奇楽庵が追って書いてくれるだろう。

といっても、新潟の古町で朝方まで酒を飲んでいたようだから、すぐに更新はされないに違いない。



それにしてもマハタという魚、うまいの、なんのって、それは驚愕の味といってもいいものだった。



佐渡にはまだまだ滋味たっぷりの“幻”と言われるようなモノがひそんでいるのではあるまいか。



そんな豊かな佐渡、それを釣り上げた奇楽庵、そして船を出してくれた会長に、感謝!


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2009.09.29 / Top↑




千秋楽で優勝をかけての横綱対決、やはりいいですね。



たまりません。



他の相撲とは、まるで迫力が違いましたね。







長年、相撲を観てきましたが、仕切りというものが、これほど美しく輝いて見えたのは、わたし、初めてのことです。



両横綱が、蹲踞(そんきょ)したまま静止するのです。



ピタリと止まって動かない。



その時間の長いこと。



気と気が真っ正面からぶつかり合っているのがテレビ画面を観ていても、はっきりとわかりました。



火花を散らすなんてありきたりの表現は使いたくないのですが、まさに火花がバチバチと散っていました。



それからゆっくりと仕切る。



呼吸もピタリと合っているのです。



そして分かれて、塩を取りにゆく。



観ているこちらが、フーと、ためていた息を吐き出すほどに緊迫感が伝わってきました。







そして、また蹲踞したまま、ピタリと静止。



気の闘いに、観衆はどよめき、拍手がわきだすように館内をおおう。



こんなにすごい仕切りを二番も見せていただいただけで感謝です。







結果は本割りで白鵬が勝ち、決定戦で朝青龍が勝って優勝を決めましたが、それは二の次です。



とにかく、両横綱の気迫の相撲の見事さに酔いしれました。





ただ、この結果によって「朝青龍・白鵬時代」は、まだまだ続くのだな、と実感。



仮に白鵬が優勝していたら「白鵬時代」になったかもしれず、そうなると、なにやら具のない味噌汁を飲んでいるようで、ひどくつまらないものになってしまいますから。





それ以外にいろいろと書きたいこともありますが、今回は、両横綱の気迫の二番だけにしておきましょう。



おそらく横綱審議委員会、とくにウチダテのおばちゃんも、今回は、そううるさいことは言わんと思いますよ。





というわけで、次は九州です。



白鵬のリベンジ場所というわけで、たいへん楽しみですね。


2009.09.27 / Top↑


場所前の下馬評とはうって変わって、朝青龍の調子がいいようですね。



名古屋の大の大相撲愛好家で知られる“自称・朝青龍の愛人の御方”は、ただひとり全勝街道を突っ走る雄姿に鼻息を荒くされていることでしょう。





びっくりしたのは初日の相撲。

朝青龍は、なにを考えているのか、あの巨漢の把瑠都を二度も吊り上げたのです。



まさか荒技の吊り落としで把瑠都をしとめてやろうなんて無茶なことを考えていたわけではないでしょうが、この相撲を見て、朝青龍のやんちゃ相撲が戻ってきたか、とほくそ笑んでいたものです。





それでもって中日でしたか、対玉乃島戦で見せた、あの「ひざげり」まがいの手と脚を使った送り出し。



朝青龍というのは勢いのある時ほど、ウチダテのおばちゃんの眉間にシワが寄るようなことをしでかすのがこれまでのパターン。



とくに朝青龍は頭で相撲を取るタイプではありませんから、しようがないのですね。

反射神経の塊といってもいいぐらいで、体が反応してしまう。



ま、佐渡ヨコチン(横綱珍議委員会)から見れば、どうってことのない些細な出来事でした。







むしろ問題にしたいのは、白鵬です。



6日目、翔天狼に負けた一番。

負けるはずがない、と高をくくっていたのでしょうね。

負けた後、礼もせずに土俵をおりた姿はいただけませんでした。



つまり、無礼なのです。



礼に始まり、礼に終わる。

これぞ、日本武道の伝統。

それを横綱がけがす行為をしでかしたのですから、これぞ重大問題。



同じことを朝青龍がやれば、ウチダテのおばちゃん、すかさず吠えて、噛みつき、翌朝のスポーツ紙、ワイドショーの大喜びネタになっていたでしょうね。





白鵬は、朝青龍とは正反対で理詰めの頭で相撲を取るタイプです。



あの仕切りの所作を見ていれば、わかります。

ゆったりと時間をかけて仕切る姿を見るにつけ、大物の風格を漂わせようとの計算が働いているように思え、どうにも落ち着きません。



しかし、まだまだ付け焼き刃の大物ぶりですから、負けた後の「礼」がすっぽりと抜け落ちてしまったと、そういうことではないかと想像します。







さてさて、大関陣です。

先場所から佐渡が嶽部屋の2大関が頑張っておりますね。

そうはいっても、ともにチキンハートの大関ですから、終盤になって「ここ一番」という時に、またやらかすだろうな、と思っておりましたら、さっそくやってくれましたね。



まずは、琴光喜。

日馬富士をせっかく土俵際まで追いつめたんだから、脇を締めて頭を下げ、一気に押し出せば、勝てた相撲。



それなのに琴光喜ときたら、なに考えてんでしょ。

あんな土俵際で脇をあけてガバッと左上手を取りにいくなんて…。

まさか、上手投げでもやろうと?



追いつめられていた日馬富士、上手を取りにきた瞬間にすかさず腰をかがめ、もろ差し。

さすが、朝青龍に次ぐ反射神経の持ち主、日馬富士です。



そのまま電車道よろしく反対側の土俵際まで琴光喜をもっていき、寄り切っちゃいました。



琴光喜、あえなく2敗目で優勝戦線から離脱。





それを土俵下で見ていた琴欧洲に、チキン菌が感染。

魁皇に、とったりで体を崩されて、そのまま押しだされ、これまたガン首そろえて2敗目。



魁皇、立ち合いの時に、仕切り線の右側に寄っていたんだから、上手狙いにくるな、と素人だってわかります。

なのに、琴欧洲ときたら、なんの対策もせず、そのまま素直に立ち合って、予想通りに左腕を取られ、絵に描いたような負けっぷり。



このあたりで星のつぶしあいをやられると歯がゆいものですね。





それで千代大海が、来場所14度目のカド番って、大相撲ならびに相撲ファンを完全にナメてますね。

休場を決めた、と聞いた瞬間に、引退だなと思ったのですが、どうも次の九州場所に出場するようです。



九重親方も引導を渡すのかと思いきや、さにあらず。



記者団に向かって「なんでやめる必要があるの」と言い放ち、



「来場所ダメでも、その次に10番勝てば大関に戻れるということだってある」



なんてことを言うのだから、どうにもなりません。



なんで、こんな無様ことを大関にやらせるのでしょうね。



推測ですが…。

九重部屋から千代大海がいなくなれば、あとは十両に千代白鵬がいるだけで、ほかはすべて幕下以下。



つまり、千代大海だけが九重の金ヅルなのでした。



そんな無粋な話は置いて、全勝の朝青龍、そして1敗で追う白鵬、素晴らしい展開です。



残り4日、いい相撲だけを期待しております。
2009.09.24 / Top↑
使いたくない言葉というものがある。



ひとつには、差別的な表現にかかわる言葉。



脈絡の中で、どうしてもその言葉を使わねばならないという状況でないかぎり表現を変える。

言葉をつむぐという作業には、そうした努力が必要だと考えている。



たとえば、「お里が知れる」という言い方がある。

わざわざ使用する必然性があるのかどうか、立ち止まって考えなければならない言葉だと思う。



本人の努力では変えようのない事柄というのがある。

たとえば、親を選ぶことはできないし、生まれ育った土地、その環境にしたって本人の意思では変えようがない。



したがって、それをわざわざあげつらって書いている文章にあたると、たいへん不愉快な気持ちになる。



「お里が知れる」という言葉には、そうした意味合いが含まれていることを知っておかなければならない。





同じように「河原乞食」という言葉も、わたしは必然性を感じなければ使わない。

この言葉には何より人を蔑むような意味合いがこめられているからだ。



もちろん、芸人や役者の中に自らを戒めるために「河原乞食」と称する者を時々見かけるけれど、こちらは、逆に芸人としての心意気を感じる。



しかし、芸人でもない人間が誰かをさして、あるいは一般論としても「河原乞食」という場合は、無意識だからこその根の深い差別の意識がひそんでいるように思える。



したがって、わざわざこの言葉を使用する人間に品性の下劣さ以外の印象をもつことはできない。





じつは、こうした人を見下すような言葉を使って佐渡の人々のブログを批評、あるいは、社会時評を書いている者がいる。

批評に堪えるだけの表現力を持たないのに評論という難しいことやっておられるようで、どうにも危なっかしい。



やっかいなのは、本人は自身の文章にたいへん自信をもっておられる様子であること。





「文章を読めば、どのレベルまでの国語教育を受けたかがすぐにわかる」



「大卒と中卒とでは、決して学歴で差別するわけでは無いけれども、きちんとした論文を書く訓練を受けた人と独学とではその差は歴然!」



などと言いきり、本人は最高学府での国語教育をお受けになった、とは書いていないけれど、言外に、それをほのめかしている。

つまり、高い教養を身につけておられるようなのだが、その一方で、表現が、時々、乱れる。



『ブロガーの心構え』と題する一文の中に、こんなくだりがある。





「島内ブログには、ちゃらちゃらとした、まるで中身のない高校生が書くような携帯絵文字を多様(ママ)した幼稚な内容の記事をアップしているしょんべん臭い小娘ブログのようなものがある。れっきとした主婦が書いているようなのだが、よくもまああのような記事をネット上に晒し続けられるものだと思って逆に感心しています。」





これだけを読むと、書き手が高い教養を身につけた女性であるとは思えない。



そして、その一文は、こう締めくくられているのだ。





「このブログの書き手の教育レベルなどは推して知るべしだが、お里はとうの昔に知れています。毎日熱心に更新する姿には敬意を表したいけど、現代国語の勉強を一からやり直した方がいいかもね。」





ここで「お里が知れる」と使う必然性はあるのだろうか?

わたしは、それだけでこの書き手のセンスを疑う。

もっと違う表現がたくさんあるはずなのに、わざわざ反発を買いかねない言葉を使用しているのだ。



もしかしたら「お里が知れる」という言葉の意味について無知なのか、それとも語彙が不足しているのか、と想像するが、本人は自分のことは棚に上げて、佐渡のある人物の運営するブログについて、こんな批評を行っているのだ。





「このブログは、典型的なおやじブログ。人物を観察してもボキャ貧なので大向こうをうならせるような描写ができない。」

とバッサリと切る。



といっても、他人のブログを批評する者が堂々と「典型的なおやじブログ」と、ひどく陳腐で、カテゴリカルな言葉をおざなりに使っている。



わたしから見れば、こういう表現こそ“ボキャ貧”だと断じたい。





この「典型的なおやじブログ」と評されたブログは、写真を中心に、キャプション程度の短い文章が添えられているという構成。



つまり、写真から伝わってくるものこそが、このブログの本質であり、人と人とのつながりや、日々の暮らしぶりなどが、淡々と、素朴な短いセンテンスで表現されている。



そして、時々、唐突な駄洒落があって、これが読み手に安心感を与える効果を持ち、そのブログで紹介されている地を警戒心なしに訪ねることができるのではないかと思う。





そういうブログなのだから評者が言うような「大向こうをうならせるような」表現など必要ともしていないし、本人も求めていないのではなかろうか。







いったい、この評者は、なにを目的にして他人のブログを取り上げて、わざわざおとしめるようなことを書き散らしているのだろうか。



アクセス数やランキングについてのこだわりが強いようだから、もしかすると他人のブログに対して“辛口評論”を行うことによって、自らのブログに注目を集めたいとの狙いだろうか。



それはそれで構わないけれど、人の営みに対する優しい眼差し、深い洞察力を養う必要がある。

そうすれば人をおとしめるような言葉遣いなどせずに済むし、ブログ評論として期待される存在になるのではないだろうか。


2009.09.17 / Top↑


ずいぶん以前に読んだ一文が、時折、思い出されることがある。



詳しく知りたいと思い、調べてみようと思い立つのだけれど、それがどの本に書かれたものだったか、判然としないことが多い。



しっかりとメモをとっていればいいのだけれど、本を読む勢いが勝ってしまい、その結果として大ざっぱな記憶しか残らない。

文章の輪郭はわかるのに細部、核心がつかめないで、歯がゆい思いをする。





その一文は、昨年亡くなられた加藤周一さんの著作であることはわかっていた。



そこでインターネットで佐渡の図書館のサイトに入り、検索してみる。

51件もヒットしたが、すぐに、そのタイトルを思い出した。





昭和46年に新装版として出版された『文学とは何か』だった。



図書館に行き、目当ての一文に再会、思わず、これだ、これだ、と叫びたくなる。





さて、その一文、なぜ思い出したのか。

インターネットに氾濫する文章、とくに匿名で運営されているブログの中に人を蔑むような文章表現が目についたからだった。



もちろん、自分もブログを運営している身としては、こうしたことは決して他人事ではない。

無意識のうちに他人を傷つけていることも十分考えられるので自戒の意味をこめて、その一文を引用する。



以下、加藤周一著『文学とは何か』から引用。





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フランスの小説家ジョルジュ・デュアメルには、第一次世界戦争の挿話をあつめた『文明』という本がありますが、彼は、その本のなかで、文明とは、汝の隣人を愛せよという言葉を理解し、実行すること以外のなにものでもないといいました。これは文明という言葉のもっとも深い、またもっとも美しい解釈だろうと思います。



文化は個人の、文明は社会の問題ですが、いずれにしてもその根底は何が人間的であるかということにかかり、人間の問題でない文化や文明はあるはずがありません。ありそうにみえるのは、みせかけだけで、化けの皮はさまざまの機会にはげるものです。



現にわたくしは、そういう人物に会ったことがあります。そういう人物の多くは、金をもっていて、金のために、豊かな趣味を育て、高い教養をつむことのできた人たちです。衣服の趣味もよいし、言葉づかいもものやわらかです。外国の芸術について巧みに語ることのできる人であるし、日本の舞いに長じ、日本の舞台芸術の微妙なアジをこまかく味わうことのできる人もあります。



しかし、彼らが成り上がりであれば、とりひきでないつきあいにも金の話をもちだすでしょう。成り上がりでなければ、金をもたない人間を決して対等の人間として扱わないでしょう。わたくしはそういう人物と相対しながら、趣味の洗練や芸術的教養の豊かさだけが、文化や文明ではなかろうということを何度も感じました。



身についた芸も、美しい趣味生活も、多くの知識や気のきいた精神と同じように、それが芸術に対する人間的な評価を育てないかぎり、またそれがその人の品性を下劣さから救い人間的にたかめないかぎり、文化でもなければ、文明でもない。ほろびてもさしつかえないものです、金もちとともに文化がほろびるだろうという文化主義者の心配は、どうも余計な心配のように思われます。





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解説するまでもなく、たいへんわかりやすく書かれている。

これが旧版として1950年に出版された著作の中の文章なのだろうかと考えさせられるほどの明晰さで、インターネット社会に生きる小金をもった現代人に痛烈に語りかけてくるようだ。
2009.09.14 / Top↑

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