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宇野千代の作品を読んでいる。

たまたま立ち寄った古本屋で『別れも愉し』という文庫本が目に入り、手に取ってみたら、なんと45円という値がつけられている。

傷んでいるわけではない。

奥付を見ると、1997年4月7刷となっているから、亡くなられた翌年のものだ。



宇野千代は100歳を目前に他界されたが、その奔放な生きざまには驚かされる。

尾崎士郎や東郷清児、北原武夫などとの結婚と破局を繰り返し、ほかにも多くの著名な芸術家と浮き名をながしたことは、よく知られている。



その奔放さと強さを、どう描いているのか。

そこを知りたくなる。



目を引くのは、たとえば、『女の生活』の中で、別離を決心しながら夫には何も言わずに北海道から東京へ上京するくだり。

それを、こう書く。





  知らぬ間に私はひとりで東京へ出て来た。





この「知らぬ間に」という表現は奔放を通り越して、あまりにも無責任な言い回しだな、と思っていたら、1ページほど読み進んだところに、そのあたりの説明とは言えぬ説明があって面白い。





  知らぬ間に私は郊外の小さな藁葺屋根の家に住っていた。

 「知らぬ間に」という言葉を私は好んで使う。

 私は自分にも自分のしていることが信じられぬような場合に、

 まるで他人のせいでそうなりでもしたように思い込むのである。

 家は小さな丘の上にあった。





明治生まれの女が奔放に生きるとは、並大抵のことではないだろうと想像していたが、「知らぬ間に」という言い方で、過去に戻されかねない意識を、未来のある前へ前へと向けていたのだろうか、と考えていたら、改行後に「私」を分析してみせてくれる。





 私は自分のことを解剖して考えてみることができない。

 昔のことは思い出さぬようにするのが私の主義である。

 私は自分の都合のよくないことはみんな忘れているからである。

 苦しかったことは思い出すことが出来ない。

 思い出すのもいやなことはみんな忘れている。

 あるいは時の経つ中に、苦しかったことも愉しかったことのように

 思い誤ってしまうのかも知れない。

 とにかく私にとっては、いつでも大した煩悶という風なものがない。

 いつでもちょっぴり楽しいことがありさえすれば、それで充分に生きて行かれる。





これだな、と得心したような気分。

奔放に、しかも100歳間近まで生きた女性の強さは、ここにあるのだな、と思う。



身勝手な父親の存在。

暗い、不幸な生活を強いられてきた少女時代。

父の死後、その反動により自由奔放に生きることを選択した。



タイトルの『別れも愉し』にあるように別離という苦しみさえも「愉し」と、率直に表現できるには、どれだけの苦難を乗り越えてきたのだろうか。



“癒し症候群”ともいえる現代人には、宇野千代の強さこそ、必要ではあるまいか。



それにしても45円とは…。
2009.02.10 / Top↑
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