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昨日のブログ『それにつけても、男の間抜けさよ』を書きながら、ずいぶん昔のことを思い出していました。



じつはわたし、1980年に小朝さんが真打ちに昇進した時、池袋でお会いしたのでした。

この時の小朝さんはまさに飛ぶ鳥を落とす勢い。

先輩二つ目の方々36人ごぼう抜きの大出世なのですから。



ある雑誌の編集者が「その心境について小朝に聞いてこい」というのでノコノコと出かけていったわけです。



まずは、落語を聴きました。

池袋演芸場です。

なんだか、こきたい寄席だなという印象でしたが、「小朝がトリ」だというので満席状態でした。



その時、初めて小朝さんの落語に触れたわけです。

枕の小噺が、うまいのですね。

時事ネタをうまく取り入れて、笑いをとる。

いきなり観客を引きつけていくのです。

演目は失念しましたが、とにかく、その色気ある声色とともにすごい才能だなと感心していました。



小朝さんはわたしとほぼ同年代、当時、彼は24歳か、25歳の若さでした。

二人の弟子を引き連れ、中華料理屋に自らが案内に立ち、ご馳走になったことをを記憶しております。



人の気持ちをくみとることに長け、サービス精神も旺盛で、そのまま書けば記事になるだろうと思うほど頭が回転しているのがわかります。

しかし、その率直な物言いと、どこまでが冗談なのか、わからないしゃべり方に翻弄もされましたが…。



「談志師匠の噺を聞いて噺家になりたいと思った」



「どこに入っても落語ができると思って、たまたま春風亭柳朝師匠の弟子になりました」



「枕だけで高座をやってみたい」



なんてことを言うのですね。



おかげでいい記事が書けました。

その上、中華料理までご馳走になったのですから、そのお礼というわけではありませんが、小朝さんに、ある詩を紹介したいと、ふと思ったのです。



金子光晴の詩なのですが、女性をどのような視点から見るか。

そこにブレを感じた時、読み返してみたくなる詩として、わたしはつねにそばにおいてあります。



というのは、金子光晴という人ほど優しいまなざしで女性を見つめつづけた人はいませんし、大げさにいえば、その生涯を女性研究に費やしたといっても過言ではありません。

晩年には、「エロジジイ」とも呼ばれるほどでした。



しかし、これについては自らが、そう仕向けていたといわれています。

一切の権威を認めたがらなかった金子光晴は、自らを「エロジジイ」とすることで詩人としての権威を持たされることを拒絶したとみられているのです。



そんな自由人である金子光晴が、女性をどのように描いているのか。

ぜひ、いまの小朝さんに読んでいただきたいと思うのです。







    女への弁





   女のいふことばは、



  いかなることもゆるすべし。



  女のしでかしたあやまちに



  さまで心をさゆるなかれ。





  女のうそ、女のきまぐれ、放埒は



  女のきものの花どりのやうに



  それはみな、女のあやなれば、



  ほめはやしつつながむべきもの。





  盗むとも、欺くとも、咎めるな。



  ひと目をぬすんで、女たちが



  他の男としのびあふとも、妬んだり



  面子をふり廻したりすることなかれ。



  いついかなる場合にも寛容なれ。



  心ゆたかなれ。女こそは花の花。



  だが、愛のすべしらぬ偽りの女、



  その女だけは蔑め。それは女であつて女でないものだ。





一読した時、男ってのは大変だ、と思ったものです。

なにしろ小朝さんのように“金髪豚”とののしられようとも、「咎めるな」「妬むな」「面子をふり廻すな」「寛容なれ」「心ゆたかなれ」と叱咤するのですから。

わたしも時にはうっかり忘れてしまいますが、折りに触れ、これらの言葉が思い出し、戒めとしてきたのです。



ただ問題は、最後の二行の、どんでん返し。

この二行がなければ、ただの“男への戒めの詩”となるところですが、「愛のすべ」という謎を残すことによって、いつまでも離れてくれない詩となっているわけです。



この詩を題材にした噺を小朝さんの語りで聴いてみたいですね。


2008.10.30 / Top↑
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