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テレビにおけるお笑い番組が、近ごろつまらなくなった、と思っていたけれど、その理由がわかった。



『プロフェッショナル 仕事の流儀』という番組に落語家の柳家小三治が登場したのだ。

そして、こんなことを言った。



「笑わせるのではない。つい笑ってしまうもの。それが芸だ」



これは、深い。



小三治の落語には、派手さはない。

淡々と語っていく。

しかし、面白い。

たしかに思わず笑ってしまうような落語だ。



小三治は、先輩17人ごぼう抜きで真打ちに出世した才能を持った人である。

ところが、師匠の柳家小さんに稽古をつけられた時に、

「お前の落語は、つまらないね」

そう言ったまま師匠は、去っていったという。



これは、きつい。

なにが、つまらないのか、それを言ってくれない。

この突き放し方は、芸の世界だからこそなのだろう。



ここから小三治は、「笑いとはなにか」を追求しはじめた。

以来、現在に至るまで、その追求はつづいているのだという。



ある日、名人と言われた古今亭志ん生が、

「落語を面白くしようとするには、面白くしようとしないことだ」と言ったという。



志ん生という人は高座に上がって、そのまま居眠りしてしまったという逸話があるけれど、その存在自体が、すでに笑いなのである。



それにしても「面白くしようとするには、面白くしようとしないことだ」というのも、これまた奥の深い話である。



その結果、小三治が行き着いたのが、淡々と、いっさいの無駄をはぶいた語り口である。



映像では、池袋の演芸ホールでの8日間通しての小三治の落語が映されていたが、観客はテレビカメラの存在がないがごとくに小三治の世界に没入していた。

そして、小三治の言う「つい、笑ってしまうような笑い」につつまれていた。



この笑いの特徴は、つい笑ってしまったら最後、なにを見ても、なにを聞いても、おかしいという事態になることである。

箸が転がってもおかしいというのは「番茶もでばな」の若い女の子のことだけれども、それに近い笑いを玄人筋にもたらしているのだ。



ひるがえって、最近のお笑いが総じてつまらないのは、笑わそうという意図が見え透いているからだろう。

笑いの質そのものが違うけれども、算数程度の計算が見えてしまうからではないか。



文章も同じである。

笑わせようという作為をもって書いた文章は、やはり、面白くないのだ。

と、自戒する。



吉村昭や佐木隆三の小説も小三治の落語と同じように、一度、入り込んだらクセになるが、両氏の文章も、いっさいの無駄を排して書かれているからなのだ。



笑わせてはいけない、作為を持ってはいけない。

そういうことなのだろう。



司会の茂木健一郎の質問に、小三治は、こんな笑いが理想だと語った。







「これだけの無精者が集まったのだから、無精の会ってぇのをやろうか」



「よしなよ、面倒くさい」






2008.10.15 / Top↑
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