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暇にまかせて本や雑誌をペラペラとめくっていると、ハッと立ち止まるような一文に突き当たることがある。

たとえば、こんな文章である。



「多くの女性は教養があるというよりも、教養によって汚されている場合のほうが多い」



これはフランスの小説家、フランソワ・モーリアックの言葉らしい。

かなり差別的な発言のように思える。



このノーベル文学賞作家には女性の心理を通して描いた『テレーズ・デスケルー』という名作がある。

女性の側に寄り添いながら、テレーズがなぜ夫の毒殺未遂を行ったのか。

それを心のひだを分け入って描写し、日本の作家にも大きな影響を与えた。

『菜穂子』の堀辰雄、『愛の渇き』の三島由紀夫、そして、遠藤周作である。



ことに遠藤周作は『テレーズ・デスケルー』を繰り返し読み、そのつど新たに発見した事柄について『私の愛した小説』というタイトルで発表している。



その評論を読み、わたしはF・モーリヤックという小説家を知ったのだが、あのモーリヤックが冒頭の一文を述べたとはとうてい信じられないのだ。



ただ、「女性」を「人間」に置き換えてみたら、どうだろう。

よく理解できるのではないか。

男であれ、女であれ、教養というものを身につけた“いかがわしさ”というものがる。

それをモーリヤックは言いたかったのではあるまいか。



官僚という教養の持ち主たちを思い浮かべるがいい。

最高学府で学びながら、責任をもたず、事あらば、他人のせいにして保身にかかる術はみごとである。

一緒に酒を飲めば、いま流行の言葉でいえば、上から目線で語るつまらなさ。

教養を自負する者の共通する傾向として、彼ら(彼女ら)には、つねに人を上から見るような傲慢さがある。



かつて京都の寂庵を訪ね、瀬戸内寂聴さんにさまざまな事件を通して世相をうかがったことがあるが、教養について話題が移った時のひとことも痛烈だった。

時は「ノーパンしゃぶしゃぶの官官接待」がマスコミをにぎわしていた頃である。



「あなたね、東大を出たからって教養があるなんて信じちゃいけませんよ。教養なんて、やってよいことか、悪いことか、それを知っているかどうかですよ。東大を出た人ほど教養なんかありませんよ」

と、朗らかに笑った。



こうした教養のいかがわしさについて熟知しているモーリヤックは、あえてそこを指摘したかったのだろう。

しかし、「女性」と限定したのは、なぜだろう?



遠藤周作の『私の愛した小説』を読むと、同じカトリック作家としてのモーリヤックについて詳しく研究していることがよくわかる。

それでも、謎が残りつづける。

その繰り返しを続けているある日、女性を丹念に書いた多くの作品を残している吉行淳之介に、モーリヤックの話をした時、彼はこう断定したという。



「あの人は、同性愛者だな」



遠藤周作は、この言葉に衝撃を受けたと、ユーモラスな語り口で書いていたが、その視点で読み返すと、さまざまな謎が解けた、とも述べている。



わたしの謎も、この吉行淳之介のひと言で解決してよいのだろうか?
2008.10.11 / Top↑
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