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時々、シモーヌ・ヴェイユというフランス人の女性のことを考える。

34歳の若さで、その生涯を終えた彼女の生き方は、自らスペイン内戦の義勇軍に志願したりと、行動的で、壮絶である。



そういう実体験から出てくる思索と言葉の数々は、ハッとさせらるけれども、かといって簡単につかみとることもできない。

たとえば、彼女は、ある手紙の中で、こんなことを書いている。



「子供のころから、私は、社会のなかで人に蔑まれている階層に訴えかけていた集団に共感をいだいていましたが、ついにはこうした集団があらゆる共感に水をさす性質のものであることに気づくようになりました」



えっ? なに? なにを言っているの、この人、とまず先制パンチを食らう。

こうなると、がぜん、彼女の思索に近づきたくなってくる。



落ち着いて考えれば、「蔑まれている階層の集団」に絶望したのではなく、あらゆる「集団」というものに懐疑的になっていたのだろうとわかってくる。

なぜなら、こういう痛烈な言葉も残しているからだ。



「政党は、人間の魂に宿る真理と正義の感覚を殺すように、公然かつ正式につくりあげられた機関である」



政党制というシステムまでも彼女は呪うかのように強く非難しているのだ。

工場や農場で日雇い同然の労働を体験しようと自ら出向き、そこで共産主義と身近に触れたことや、ドイツにナチスが登場し、ヨーロッパを席巻しようという時代の人だからこその言葉である。



しかし、この一行を思い浮かべるたびに、いまの日本の政治の醜悪なるありさまが重なってきて、その通りです、と言いたくなってくる。



もっとも、悪と神の不在について深く追求した彼女の叫びであって、人間のどうにもならない性質を鋭くついたものだろう。

そのことが、ある人への手紙の中で書かれている。



「本当に親しい会話というものは2人か3人の場合にしかないことは、だれでも知っています。5人か6人になると、もう集団の言葉が支配しはじめます」



“集団悪”というものを忌み嫌っていることがよくわかる。

個人的に話せば物腰柔らかく好人物であるのに、集団になるとがぜん強く出てくる人々が実際にいるし、ある集団に帰属したとたんに悪としての表情を見せる。

なぜ? と思うけれども、日本であれ、あらゆる社会、組織でも現実に見られることである。

これは、わたしも怖いし、不信の念で見ているが、彼女は、その恐怖と悪について強く訴えていたのだ。



彼女は最終的に「正義の精神」は「愛の狂気」にほかならず、

それは「隣人愛」であるというところへ行き着く。



が、これを説明するには、一晩徹夜しても終わらない。

「隣人とは、だれぞ?」というところから語らねばならないし、

「愛の狂気とは、なんぞ?」と問われれば、これまた徹夜してもおっつかない。



間違いなく怠慢だけれども、そういう言葉を常日ごろから心に留めておくことで、ある日、突然、「ああ、こういうことだったか」と、わかる時がくるのではないか。



と期待して、すでに10年以上が経過している…。


2008.09.06 / Top↑
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