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相撲には、様式美とか、伝統文化だとか、神事なんて抽象的な概念が、くっついてくるから話がややっこしくなるのだ。

要するに、そうした大義をつけておかなければ人間ってのは元来乱暴ものであり、礼儀やら作法といったものを授けておかないと、なにをしでかすか、わかったものではない、という「しばり」である。



フーリガンの発祥の地ともいわれるイギリスが「ジェントルマンの国」とか「騎士道」といったものをことさらに言わなければならないのは放っておけばフーリガンが大手をふるうことになりかねないからで、明治以降の日本人が好んできた「武士道の精神」なんてのもしかり。

“道”を示しておかないと平然と「二君に仕える民」が日本人なのだ。



チェスと将棋の比較がわかりやすいけれど、チェスでは捕虜になった人間は一生捕虜であり、奴隷の生活であり、二度と戦場へでることはない。

しかし、わが将棋においては捕虜になっても、すぐに前に仕えていた王将の首をとるべく戦場に赴くのである。

これが日本人の発想の根幹にある。

昨日の敵は、今日の友なんである。

したがって、お殿様という権力者から見れば恐ろしい民であり、困った性癖をもっている民なのだ。

だからこそ武士たるもの「二君に仕えず」の「忠君」を最大の“名誉”としたのである。



過去は水に流し、明日は明日の風が吹く、という生き様を好む日本人は根っからの自由人なのだ。

先の太平洋戦争の頃、軍人政治家たちは、この自由奔放なる民に対して、何と言ったか。

「生きて捕虜の恥を受けるべからず」

捕虜になる前に死ぬことを“名誉”としたのだ。

将棋の駒のように捕虜になって敵兵となるのを恐れたのだろう。

だから武士道なんてことを示して自由奔放な民を飼いならさなければならない。



その象徴として唯一、残っているのが大相撲。

唯一とわざわざ書いたのは相撲だけにそれを求め、求めている側の政治家、官僚、企業家、メディア、横審も含めて「○○道」なんてものが存在しないからだ。

三島由紀夫は、そこを嘆いた。

坂口安吾は権力者達のインチキぶりを敗戦から、わずか半年後に『堕落論』で書き、「○○道」を求め、天皇制を利用する輩を警戒しろと鋭く指摘している。



朝青龍に対して品格だなんだと言っているけれど、そんなことは部屋の親方が躾ければ済むことである。

親がダメだから子も、そうなるのは世の常で、親が不躾なら、どうにもならぬ。

大草原を駆け、ヨーロッパのほぼ全土を制圧した遺伝子を持つモンゴルの民を、風まかせの典型のような親方が教育しようなんてのが、どだい無理がある。

それも、日本人だってよくわからない相撲道だ、伝統だ、神事だから、なんてことでもって品格をもとめたところで外国人力士にとってはチンプンカンプン。



そんなことよりも、見ていて心地よい態度、所作をやれ、ということだけでいいのではないか。

人間は誰だって不快なものは見たくない。

箸の使い方も知らず、クチャクチャと音をたてて食べ、食べ物をボタボタとこぼすような人間とメシを食ってもうまくないように、不快な態度、所作は、カネを出してまでみたくないのだ。

やんちゃ坊主の朝青龍の態度には、ガッツポーズや駄目押しのクセも含めて時々、この不快さを与える所作がある。

おそらく、それが多くの日本人の勘にさわるのだろう。



品格だ、相撲道だ、もののふだ、などとワケのわからない言葉よりも、お前の態度は不快だ、直せ、と親である高砂や、ふて腐れ顔ではひけをとらない北の湖理事長が叱り飛ばせばいいだけの話。

左手で受け取っていた懸賞金も右手に変えたのも、品格という抽象論ではなく、具体的に教えたからだろう。



国技と興行という矛盾したものを抱え、グローバル化していく大相撲に“品格”という抽象概念を求めるのならば、文部科学省よりも防衛省に所管を移して「武士道の精神」をたたき込めばよろしいのではないか。
2008.05.28 / Top↑
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