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人物を文章で描くのはたいへん難しい。

ある一面だけをとらえて書けば底の浅い文章になる。

だいいち人間はそれほど単純ではない。

近ごろのテレビ、新聞などのマスコミにおける人物論は、ひどく底の浅いもの

ばかりである。

ある一定の角度から光を当てるだけだから時がたつにつれ、腐敗が進む。



たとえば、ホリエモンである。

マスコミ各社が彼を時代の寵児ともてはやしたのは、つい最近のことだが、そ

の頃の記事はすでに腐乱し、見る影もない。

そうした文章を「ある人間の手先になって、その人を誉め、宣伝する」という

意味の“提灯記事”と蔑まれたものだが、いまのメディアには、その蔑みの自

覚がないようである。

自覚がないために逮捕された瞬間から一転して犯罪者扱いの記事、情報をタレ

流す。



なにか事を成し遂げた人物、あるいは自分の好む人間を盲目的に誉めたがるの

は、多くの人がおちいりがちな罠である。

対象の人物を誉めることによって、誉めている自分という存在の格上げを行っ

ているにすぎないことに気がつかなければならない。

表現者として対象人物を盲目的、全面的に誉めることは底の浅さを自ら暴露す

る行為であり、対象人物に寄生していることを天下に知らしめていると思うこ

とである。



そうした文章は、いわば勧善懲悪の臭いを放っている。

対象人物を“善”とするには、“悪”の存在を際立たせればいいのである。

日本人の好むドラマ『水戸黄門』は、その手法だけで長寿を成し遂げている。

水戸光圀という人物の素晴らしさを強調するために、次から次と悪代官やら悪

徳商人を出してくる。

その結果として水戸光圀という人物を正義の味方、弱者の救済者としてのイメ

ージを見る者に植えつけていく。



それは暴力団を“武闘派”と“穏健派”に色分けして表現することがあるが、

こう表記することによって、なんとなく“穏健派”の人たちが善人に思えてく

るのと手法は同じである。

暴力団の実質は変わらない。

むしろ、そうした誤解を与える表記こそが非常に危険であって、“穏健派”が

“経済ヤクザ”として闇金を支配し、どれだけの一般人を苦しめているか。



だから水戸光圀であろうと、安倍晋三であろうと権力者というのは、つねに両

刃の剣を懐に隠し持っていて、悪を叩いて民を救済する一方で、民を平然と斬

り捨てる存在であることをメディアはもちろん、ブログの書き手もはっきりと

自覚しておかなければならないのではないか。



人物を描く場合には、よい面ばかり書いてはいけない。

長所と思えることは、裏を返せば短所でもある。

「おおらか」の裏には「おおざっぱ」という意味も隠れていることを書き手は

十分に理解した上で、言葉を選ばなければならないのだ。

それと同じで、「彼は真面目で、仕事に熱心な男だ」と、彼の仕事ぶりを紹介

した提灯のような記事を読むと、「なんだ、遊びを知らないんだな、面白くな

い男だ」なんてことをわたしはつい考えてしまう。



人物を書こうとするときは、それそうとうの材料を持っていなければならない。

よいことも、悪いことも含めてさまざまなエピソード、証言を収集して、それ

を整理分析したうえで書く。

それでようやく奥行きのある文章となっていくのではないか。

奥行きとは、その人間に対する愛情でもある。

愛情を感じられる文章といっていい。

怒りにまかせて一方的に攻撃しているような文章には書き手の愛情を感じるこ

とはできないのは当然だが、一方的に誉める文章にも愛情を感じることはでき

ない。

「誉め殺し」である。



つまり、人間を描く場合、100%誉めてはならないし、100%こきおろしてもい

けない。

70%をこきおろし、残りを誉めるというぐらいがいい、と教えられたことがあ

る。

その比率は対象の人物によって変化するけれども、からかいながら誉めたり、

誉めながらくさしていけば、書き手の目線の位置が明確になり、文章に説得力

と人間に対する愛情がこもってくるように思える。



書き手の目線。

それは、自分も同じような過ちをおかすのではないか、という恐れであり、想

像力である。
2006.10.31 / Top↑
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