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文章は素直に読み、楽しみたいものである。

しかし、行間を読み、そこからイメージをふくらませていくことも、これまた

文章を読む楽しみであり、読書の醍醐味というものである。



では、行間を読む、とはどういうことなのか。

簡単な例文を示して説明したい。

わたしは前回のブログ記事『そっぽをむく』にいただいたコメントの返信に、

次のような言葉を記した。



「奇楽庵も(スズキの)でかいの揚げてたな。

頭だけを見せられ、釣りの知らないオイラでも、ゾクゾクっときましたぜ。

脂のノリも、かなりだったな…。

アラしか食ってないけど。」



これは奇楽庵に寄せた文章ではなく、やはり釣りにも一家言をもつ農民音楽家

らしきシュウゾウ(週三)さんへの返信である。

多くの友人知人を差し置いて脂のほどよくまわったスズキのお造りをわたしひ

とりでいただいたと思われると申し訳ないと素直に考え、最後に「アラしか食

ってないけど」で結んだのだ。

これは、あくまでも奇楽庵の周囲によだれを流して待っている多くのスズキ・

ファンに恨みをかわないように配慮した文章なのである。

もちろん、配慮しているのは奇楽庵に対してである。



ところが、昨夕6時半頃、奇楽庵がメールをよこした。

タイトル「さしみ」

本文「いきます」

これだけである。

行間も糞もない。

至急電報か、新聞の人捜しの広告文なみである。



奇楽庵は、さきの文章を読んで、こう思ったのであろう。

「能美の奴、アラばかり食わせないで、刺し身を持ってこい、と言ってるんだ

な。ったく、困ったオヤジだ。わがままにもほどがある」



これが行間を読むということである。

わたしは「刺し身を食わせろ」とはひと言も書いてはいない。

にもかかわらず、彼はイメージをひろげていき、「アラしか食ってないけど」

の行間から「刺し身を食わせろ」という言葉がにじみ出ていると解釈したよう

である。



文章で成り立つ文学は、数学のソレとは違って正解というものがない。

誤読、曲解も含めてさまざまな解釈があって当然であり、それらの解釈を巡っ

て論議することで、文学の奥深い味わいを知ることとなる。



重ねて言うけれど、わたしはひと言も「刺し身を食わせろ」と言っていない。

そして、小声でささやくけれど、ひと言、付け加えたい。

奇楽庵の文章に対する読解力は、魚のシメ方と同様、ここ数年で飛躍的な成長

を遂げているという点である。

いまでは他人が聞けばチンプンカンプンであろう禅問答もどきの会話で互いの

心のうちがわかるほどになってきているのである。



アオリイカの季節だな…。
2006.10.16 / Top↑
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