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「文は人なり」という言葉があるけれど、インターネット上で多くの人の文章を読んでいると、たしかにその人となりがにじみ出てくるものなのだなと、うなづく。



職業的な作家は、いろいろな文体を駆使しての表現を可能にするだけの力量を持っているだろうけれど、それにしても、その人の変えようのない性格や記憶、経験、さらにはその人の意識の特性である志向など、つまり生活史全般が文章の端々に表れてしまう。



ましてインターネット上に氾濫している文章は、その意味でほとんどが無防備だから、その人となりが、あからさまに出てきてしまうことが多い。





たとえば、自分自身を、どんな言葉で表現するか。



僕、ぼく、ボク、ボクチン。

俺、オレ、おれ、オイラ、オラ…。

私、わたくし、わたし、アタシ、あたい、アチキ…。



これらを並べてみるとわかるけれど、どの言葉、どの表記を選択するかによって、その文章全体にニュアンスが変わってくる。



自分のことを「ぼく」と表現して似合うという人はなかなかいない。

大江健三郎ぐらいではないか、と言われたこともあるけれど、あの強面の猪瀬直樹が「ぼく」を多用するので、文章全体がしっくりと馴染まないような気がしてくる。



「俺」というのは、やはり偽悪のにおいを感じるが、若い頃の野坂昭如は、坂口安吾、壇一雄、太宰治の流れの中の最後の無頼派作家とも言われていたから「俺」だったのではないだろうか。





若い人が好んで使う「自分」という言葉がある。

旧軍隊で使用されていて、それが“秩序”を好む体育系に流れ、若い人が「かっこいい」と思って使っているのかも知れない。



ついでに言えば「自分的には」なんて言葉も、便利に使用されている。

自己主張なのに「的」をつけることで曖昧になり、強い自己主張を薄める働きがある。



おそらく人間関係を荒立てず、スムーズにしようという潜在的な意識が、そういう言葉遣いを生みだしているのだろう。

そういう意味で便利な言葉だと思う。



といっても使う使わないは別問題で、わたしは「自分的」は、使いたくない言葉のひとつだ。





「筆者」という言葉を好んで使う人もいる。



これは国語教育の中で「筆者の気持ちになって答えなさい」という形で何度も出てくるものなのだが、自分のことを「筆者」と呼ぶのは、論文などのちょっと固い文章表現に使用されることが多い。



したがって「筆者」と表記をする場合、語尾は「…である。」で終わることが多く、押しつけがましい文章になりがちだ。



流行の言葉で言えば「上から目線」となりかねないから、中途半端に使用すると、反発を招く。





さらに、自分のことを名前で表記する人もいる。

就学前の子供が自分のことを「ノリカはね」と言うが、学校に通い始めて社会生活が深まるにつれ、この言い方はなくなっていく。



しかし、大人になっても、自分を自分の名で呼ぶというのは、よほどの甘えん坊か、自意識の強い人か、ということになる。



あるいは、自分を突き放し、客観的に自己を表現する場合に、自分を名前表記にする場合もある。

まるで小説の中にでてくる人物を描くように、自分を文章の中に置く。

これはかなり難度が高く、それほど多くは見られない。





というように、「自分」をどう表記するかということだけで、さまざまな選択肢があり、その選択によって文章全体の印象が変わる。

もちろん、その選択は、その人の生活史の中から生みだされる。



まして文章全体を検証していくと、さきほど上げたように、性格や、その人のもつ記憶、志向、経験、好み、さまざまなものが出てきて、まさに「文は人なり」となる。



だから、怖い。





たとえば、男が女になりすまして文章を書くとする。

女以上に女らしい文章になってしまうから、不思議である。



よく言われるように、新宿二丁目あたりへ行くと、そこにいるのは、まさに男なのに、女以上に女らしいしぐさ、しゃべり方をする。

それと同じように男が女になりすまして書く文章は、バカらしいほど女らしさを強調したいがための表現を多用しがちだ。



しかし、実際の女の書く文章には、そうした作為をもつ必要がないから、文章全般が自由闊達で、柔軟である。

時には男言葉を使って怒りを表現して、笑わせるということだってやるけれど、男がなりすました女の文章にはそれがない。

せいぜい「おだまり!」なんてオカマ言葉になってしまうのが、オチである。





しかも、文章の内容も、知らず知らずのうちに「自分」というものが出てしまうから、言葉づかいが女なのに全体的なニュアンスに男が出てしまう。



「男の大局好き」というのがあって、生活の細やかなところまでは目が届かない。

しかし、一方、女は逆で、大局などにはあまり興味がなく、生活の細部からの視点での表現が巧みになる。



この大きな違いは、女性誌と男性誌の作り方の違いを見ればあきらかで、ブログの内容を散見していれば、これは女のふりをして男が書いているものだなと、知れる。









インターネット上に氾濫する文章は、まさしく玉石混交で誠実さを感じられる素晴らしいものがあると思えば、なんのためにこんなブログを作成して文章を垂れ流しておるのか、と思うようなものもある。



しかし、やはり「文は人なり」で、多くの人が、そのいかがわしさについて直感的に気がつくものだということを、多くの人が自覚する必要がある。



そうすることによってインターネット社会も、よりいいものに進化しつづけるのではないだろうか。


2009.08.28 / Top↑
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